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日下部正和さんのこと③


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日下部さんは星をこよなく愛していました。
焼き物を作ってはいたが、星を作っていたのかも知れません。
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# by maco4459 | 2023-09-08 14:05 | 陶芸

日下部正和さんのこと②

三春の中心部から携帯のナビを使ってようやく辿り着くことができました。
秋田を朝5時に出て、途中米沢で少し休憩、観光し再び高速を使わず一般道で午後4時頃に到着しました。
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それにしても三春は陰影のある風情のいい町でした。
古き良き日本が残っている抒情がある、何とも言えない空気感。
もっとゆっくりと滞在したかったです。



# by maco4459 | 2023-09-02 14:32 | 陶芸

日下部正和さんのこと①

敬愛する陶芸家である日下部正和さんの陶房に行ってきました。
福島県三春町にある游彷陶房です。
残念ながら日下部さんは今年の2月にお亡くなりになりました。
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日下部さんには一度もお会いできませんでした。
メールで陶房に遊びに行ってもよろしいですかと連絡をしたのが2年前。
『在宅の時はいつでも』とお返事をいただきました。
秋田から福島まで近いようで遠かった。
『いつか』は自分で決断し行動に移さなければ永遠にやって来ない。
そんな当たり前のことを痛感しました。。
せめて日下部さんの陶房の佇まいを体感したいと思ってこの夏訪問しました。



# by maco4459 | 2023-08-31 10:04 | 陶芸

ガラス玉演戯/ヘルマン・ヘッセ

階 段
花がみなしぼむように。
青春が老いに屈するように。
一生の各階段も知恵も徳もみな、その時々に
花が開くのであって、永続は許されない。
生の呼び声を聞くごとに、心は、
勇敢に、悲しまずに、
新しい別な束縛にはいるように、
別れと再開の覚悟をしなければならない。
およそ事の初めには不思議な力が宿っている。
それがわれわれを守り、生きるよすがとなる。
『踏み越えよ!』
われわれは空間を次々と渉破せねばならない。
どの場所にも、故郷に対するような執着を持ってはならない。
宇宙の精神はわれわれをとらえようとも狭めようともせず、
われわれを一段一段高め広めようとする。
ある生活圏に根をおろし
居心地よく住みついてしまうと、弾力を失いやすい。
発足と旅の覚悟のできているものだけが、
習慣のまひ作用から脱却するだろう。
臨終のときも、なおわれわれを新たな空間へ向け
若々しく送ることがあるかもしれない。
われわれに呼びかける生の呼び声は、決して終わることはないだろう。
では、よし、心よ、別れを告げ、すこやかになれ!

ガラス玉演戯
宇宙の音楽を、名人の音楽を、
われわれは、敬い、おそれて傾聴し、
恵まれた時代の尊敬する精神を
清い祝祭に呼び寄せる用意がある。

魔法の文字の秘密によって
われわれは高められる。
その中に、はてしないもの、荒れ狂うもの。
生命が流れこんで、濁りない比喩をともなっているからである。
星座のように透明に、それはひびく。
それに奉仕することによってわれわれの命に意味が与えられた。
その円から落ちるものは、
神聖な中心に向かって落ちるばかりである。

最後のガラス玉演戯者
色とりどりの玉を、おもちゃにして、手に持ち、
こしかけてかがんでいる、彼の周囲は
戦争とペストに荒れ果てている。廃墟には
キヅタが生え、キヅタの中でミツバチがつぶやいている。
疲れた平和が、低い讃美歌を、
動かぬ老人にような世界にひびかせる。
老人は、色とりどりの玉を数える。
こちらでは、青い球と白い玉をつかみ、
向こうには、大きい球と、小さい球を選び、
環にして演戯の用意をととのえる。
彼はかつては、象徴をもってする演戯に秀でていた。
多くの芸術、多くのことばの名人で、
世界に通じ、広く旅をし、
両極にまで知られた有名な人であった。
常に生徒や同僚に取り囲まれていた。
今はしかし、生き残りで、老い、すり切れて、、独りぼっちだ。
彼の祝福を求める弟子はひとりもなく、
彼を論争に招く名人もひとりとしてない。
彼らはいなくなった。
カスターリエンの寺院も文庫も学校ももはや存在しない.....
老人は玉を手にして瓦石の荒野にうずくまっている。
かつては多くのことを語り合った象形文字も、
今はもう色とりどりのガラスのかけらにすぎない。
それは音もなく、高齢の老人の手から転がり落ちて、砂の中に消える.....

# by maco4459 | 2023-08-21 00:20 | Self 文学療法

荒野のおおかみ/ヘルマン・ヘッセ

今夜四時から魔術劇場
  入場は狂人だけ
   入場料として知性を払うこと。
    だれでもの入場はお断り。ヘルミーネは地獄にいる。


無政府主義的夜の楽しみ!
  魔術劇場!
    入場は・・・・お断り・・・・


おれは荒野のおおかみ、走りに走る。
外は一面の雪だ。
白樺から、からすがはばたく。
だが、どこにうさぎはいない。どこに子じかはいない。
おれは子じかにすっかりほれこんでいる。
せめて一頭見つからないものか!
歯にくわえ、手につかんでやりたい。
これほどすばらしいものはない。
あのいとしいやつを、思いきりかわいがって、
つやっぽいももに深くかぶりつき、
淡紅色の血をたっぷり飲み、
それから夜どおしひとりでほえるのだ。
うさぎでもおれは満足するだろう。
あのあたたかい肉は夜あまい味がする
生活をいくらか朗らかにしてくれるものは、残らず、
おれから遠ざかってしまったのか。
おれのしっぽはもう白くなりかけた。
もう目もはっきり見えない。
女房ももう幾年も前に死んだ。
おれは走りながら、子じかを夢みる。
走りながら、うさぎを夢みる。
冬の夜に風のひゅうひゅうと鳴るのを聞き、
ひりひりと焼けつくのどを雪でうるおし、
おれの哀れな魂を悪魔のところへ運ぶ。
(高橋健二:訳)

本文の中に出てくる魔術劇場という言葉。
ハリーは魔術をどう捉えているのか。
ハリーは魔術を力という言葉に置き換えている。
その力を彼女がどこから得たか、その魔術がどこから来たか、私にとってこれほど深い意味が
どういう神秘的な根源から彼女に生じたのか
そういうことについて、私は考えられなかった。
「生き得ないことと、死に得ないことの耐え難い緊張」こそ、あの未知の女、黒わし屋のかわいい踊り子
私にとって重要にしたのだった。

数学者の森田真生氏の著書「数学する身体」の中に次のような一節がある。
生物が体験しているのは、その生物と独立な客観的「環境(Umgebung)」ではなく、生物が行為と知覚
の連関として自らつくり上げた「環世界(Umwelt)」である。
生物を機械的な客体とみなす行動主義が隆盛を極めた時代に、生物を一つの主体とみなしてこのように
論じたのはドイツの生物学者フォン・ユクスキュルだ。
人間の環世界には想像力が介入する場合がある。この時の環世界は外的刺激に帰着できない要素を持っている。
それをユクスキュルは「魔術的(Magische)環世界」と呼んだ。
この「魔術的環世界」こそ、人が経験する「風景」である。
人はみな「風景」の中を生きている。
それは、客観的な環境世界についての正確な視覚像ではなくて、進化を通して獲得された知覚と行為の連関を
ベースに、知識や想像力といった「主体にしかアクセスできない」要素が混入しながら立ち上がる実感である。
何を知っているか、どのように世界を理解しているか、あるいは何を想像しているかが風景の現れ方を左右する。
「風景」は、どこかから与えられるものではなくて、絶えずその時、その場に生成するものなのだ。
環世界が長い進化の来歴の中に成り立つものと同様に、風景もまた、その人の背負う生物としての来歴と、
その人の時間の蓄積の中で、環境世界と協調しながら生み出されていくものである。
そうして私たちは、いつでも魔術化された世界の中を生きている。
いや、絶えず世界を魔術化しながら生きている、と言った方が正解だろうか。

ハリーは自己の内面に人間とおおかみを抱えている。
秩序ある人間社会では狼のように本能のままに生き得ない。
さりとて社会の歯車になり、他社と協調するために自己を抑制しては死に得ない。
これを自己の中で客観的に認識できるのが知性ある人だ。
魔術劇場の入場チケットは知性だ。
知性がないと無政府主義的夜はただの乱痴気騒ぎになってしまう。
さて力とは何か。
その鍵を握るのがパブロだ


荒野の狼

我は荒野の狼、唯にただ駆け続けむ
雪漫々、我世を覆い
からす、飛び翔てる白樺ぞありき
されど、我が兎、我が鹿は何処にありき
かくばかり、我は鹿に魅せられたり
我をして鹿を得さしめ
我が牙や鹿を食らわむ、我が腕、鹿を獲らしめ
我が世では美の極みぞかくありなむ
我が恋焦がれたりたれば、我が心、汝に捧げむ
我が恋うる腿肉ふかく牙を立て
燦たる血潮を飲み干したれば
聞けよ、我が寂し夜の遠吠えを。
我が渇は一羽の兎で満たされむ
甘し肉、我が寂し夜の祈りなる
ああ我が生、この華麗なるものよ
すでにして、全ては我を去りにしか
すでにして、我が尾毛、白きもの交じらむか
すでにして、我が双眼、かすまむか
すでにして、我が妻逝きて幾年ぞ去らむか。
されば今、我は駆けむ、鹿を夢見て
されば今、我は駆けむ、兎を夢見て
我は聞く、吹きすさぶ冬の夜の風を
我は飲む、渇きたる咽喉を潤す雪を
我は運ばむ、この愁心を己が聖地へ。
      (「友よ」執行草舟より)


# by maco4459 | 2023-06-29 10:36 | 読書日記