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埋木の茶の湯

井伊直弼というと安政の大獄を連想して冷酷非情な政治家と言う印象が強い。

その一方で、直弼は宗観という号を持つ茶人という側面を持つ。

直弼は井伊家十一代当主、直中の十四男として生まれた。
井伊家では、藩主となる跡取り以外の男子に分家を許さない。
他家へ養子に出されるか、兄の家臣となるか、そのいずれでもない者には三百俵の捨扶持が与えられ、一生日陰の身となるという掟があった。

兄弟間の争いを未然に防ぐため考えだされた方法であった。

十七歳で父・直中が死に兄・直亮が跡目を継いだとき、十四男の直弼は捨扶持をもらって部屋住みとなる道を選んだ。
選んだというより、それよりほかに生きる道がなかった。

日陰者の直弼が暮らしたのが三の丸にある北の屋敷であった。
直弼は北の屋敷を、自らの境涯にたとえ、埋木舎と呼んだ。
埋もれ木のような自分が暮らすにふさわしい住まいと自嘲したのである。

世の中の表舞台に立つ道を閉ざされた直弼は、溢れる情熱のはけ口を求め、様々な勉学や趣味に没頭した。

(たとえ部屋住みの身でも、いつ世に出ても恥ずかしくないよう、おのれを鍛え上げておかねばならぬ・・・)

直弼の心の底には、そうした気概が秘められていた。

とはいえ、いかに気概を持っても、学問・武芸に励んでみても、自分が世に出る機会がないことには変わりがない。

出口が見えない闇の中で、孤独な直弼の心をもっとも慰めたのが茶の湯であった。

最初に茶の湯の手ほどきを受けたのは高安彦左衛門という彦根藩お抱えの能役者である。
その後、片桐宗猿門下の真野善次より、石州流の茶を学んだ。

茶の湯の世界に精神の拠り所を見いだした直弼は、埋木舎の建物の一部を改築し、四畳半の茶室を設えている。
『法華経』にある『甘露ノ法雨澍テ、煩悩ノ焔ヲ滅所ス』という言葉から、これに澍露軒と名づけた。

澍露軒の柱には、

  何をかは踏み求むべきおのづから  道にかなへる道ぞ此の道

  朝夕に馴れてたのしく聞くものは  窓のうちなる松風の声

という自作の和歌の短冊が掛けられていた。
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by maco4459 | 2009-02-04 00:14 | 歴史
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