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私小説『馴染みの焼き鳥屋で』

心が渇くと来たくなる場所がある
古い路地の一番奥にあるこの古い焼き鳥屋
おそらく私が生まれる前からこの店はここにあったはずだ
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炭火の煙と客のタバコを何年も吸って煤けた板張りの壁
年季の入ったカウンターも多くの人々の喜び、哀しみ、嘆きを無言のままに染み込ませてきたに違いない
アルミの灰皿はピカピカに磨き上げられている
この一点にこの店の哲学が凝縮されている

おやじさんはもうかなりの歳だ
最近は耳や目にもきているようだ

『お待たせしました。タンとハツを塩でしたね』
隣の客の注文が先にきた
『おやじさん、俺、タレって言ったよ、焼き直してよ!』
最近よくあるらしい
『これ、わたしが食べますから、おやじさん、新しいの焼いてください、タレで』
わたしは無粋なお節介を焼いてしまった
おやじさんは虚空を仰ぎ、ちょっと淋しい顔をしたが、いつものように優しい笑顔で目尻にしわをつくった
『はい。承知しました。相済みません』
おやじさんはまた焼き場に立った

『あれ、やっぱりオレ塩って言ったかも、ごめんね、おやじさん!』
隣の客が大きな声を張り上げた
わたしと目が合うとにっこりと微笑んだ

今夜は何故か酔いが廻るのが早いようだ
だが、わたしはもっと酔いたい気分だった
『おやじさん、熱燗お願いしますっ!』
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by maco4459 | 2010-03-07 23:18 | 随想
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