カテゴリ:歴史( 12 )

秋田の切支丹遺物②

秋田市のOさん宅で秘蔵されている切支丹遺物を特別に見せていただいた。
Oさんの父は福岡の炭鉱で財を成した人で切支丹遺物を蒐集していたのだそうだ。Oさん自身は切支丹遺物にはそれほど興味がないらしい。
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踏み絵は上部がだいぶ擦り減っている。
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これは魔鏡だろうか、魔鏡の中には太陽光に透かすと十字架やマリア像が浮かび上がるものがあるらしいがこの鏡からは何も見えなかった。特別な光の当て方があるのかもしれない。
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陶製の子安観音。九州は窯元がたくさんあったので、このような陶製の像が量産されたのだろうか。
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刀の鍔。十字が埋め込まれている。九州には有馬晴信、大村純忠などの切支丹大名がいた。
刀の鍔なのどの武具に十字を施すのが切支丹大名の家臣の嗜みだったのか。
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by maco4459 | 2016-11-26 15:10 | 歴史 | Comments(0)

幸村の娘:お田の方の甲冑

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by maco4459 | 2016-11-14 14:41 | 歴史 | Comments(0)

秋田の切支丹遺物

天草四郎の陣中旗に似た絵が描かれている掛け軸
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本物の陣中旗
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by maco4459 | 2016-11-14 12:15 | 歴史 | Comments(0)

大和撫子の心映え

木村重成の妻「尾花」自刃の遺書

一樹の陰、一河の流れ、是他生の縁と承り候が、そも、をととせの此よりして偕老の枕を共にして、
只影の形に添ふが如くなれまいらせ候おん情こそはうれしう候へ。

この頃承りへば、主家の為め最早最後の御一戦のお覚悟の由、かげながら嬉しく思ひおまいらせ候。

唐の項王とやらむの虞氏(虞美人)、木曾義仲(松)殿の局、さるためしは、わが身も厭はしう候、
されば世に望み翳りたる妾(わらは)が身にては、せめて御身御存生の中に最後を致し、死出の道
とやらんにて持ち上げ奉り候、必ず必ず秀頼公多年海山の鴻恩御忘却なき様頼みまいらせ候、
あらあらめでたくかしこ。

妻より
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by maco4459 | 2009-06-11 22:40 | 歴史 | Comments(0)

真田佐衛門の道具

横手の城代・戸村家の所持の馬道具および鷹の道具に、悉く真田佐衛門と銘あるもの多し。
いかなる故を知らずと云へり。
予も鷹の鈴板を見たる事有りしが、角の鈴板にひらがなにて、さなださえもんと刻みつけたり。
態と後よりほりたる者とも見えず。
如何なる故にて戸村家に伝へやしけん。
何とも考もなき事なり。
爰に記して後人の評を待つのみ。
『新秋田叢書(八)』

※真田佐衛門は真田幸村の官名。幸村と秋田は浅からぬ縁がある。
その娘は岩城家に嫁いでいるし、幸村の墓も大館の一心院にある。
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by maco4459 | 2009-05-21 00:50 | 歴史 | Comments(0)

敗者たちのアジール①院内銀山

邦内仙北郡六郷の駅に小西伝市郎と云へる豪富の者あり。元は百姓なりしが今は立身して郷士となれり。元此者の先祖は小西摂津守行長の子孫にして正しき由緒あり。汁物に行長朝鮮陣の時着用の鎧を蔵せり。初は公儀を憚りて小西の名をかくせしが、近来初めて小西を名乗れり。行長関ヶ原敗れてより生捕りとなりて誅せらる。宇治の城に妾服の男子有りしを、家臣木戸某ひそかにかくして忍び出、乞食と身をやつし、山林にかくれ、辛うじて当国に下り、院内の銀山に潜居せり。其の後程たちて六郷村に移住せりとなり。尚伝来の品々これ有る由なれども、予いまだ一物も見ざる也。追々委しく糺さんと欲す。
『新秋田叢書(八)』

小西行長は慶長5年、西軍の首謀者である石田三成、安国寺恵瓊とともに京の六条河原で斬首された。 
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by maco4459 | 2009-05-18 19:53 | 歴史 | Comments(0)

木村重成の末裔

湯沢市の木村酒造の創始者が木村重成にゆかりがあるらしいという噂は以前から耳にしていた。

当地に仕事で行ったついでに酒蔵見学に訪れた。
本来の目的は噂の真実を探ることだ。
アポ無しなのでダメもと精神。

受付で見学の申し出をすると、あっさりOKがでた。
ほどなく奥から品のいい初老の男性従業員がやってきて、酒蔵を案内し説明してくださった。

頃合いを見計らって『こちらの御当主が木村重成とゆかりがあると聞いているのですが』と尋ねるとその方は意味深な笑いをした。

ややあって近くの棚に置いてある家系図の写しを見せてくれた。
その『木村酒造系譜』によると、
木村重成には一男二女があって、大坂落城の際、嫡男・治良左衛門は城を脱出し、十五歳のとき秋田雄勝郡院内銀山に下り、深山幽谷に身を隠した。
その後、近郊の角間村の五郎作という男の処に身を寄せ、その娘を娶ったという。

その方は系図の末を指し『14代の木村重利、これが私です』と言った。
なんと、この方が工場長であり、木村家の現在の御当主であったのだった。
事情があって経営は現在、他に委ねているのだという。

先代がなぜ酒屋を営むようになったのか不思議に思ったので聞いてみた。
重成の嫡男・治良左衛門の女の兄妹の一人は大阪・高麗橋板倉八右衛門という人物に嫁いだのだが、この高麗橋付近には酒屋が現在もあり、それに何か関係があるのかも知れないとのことだった。

別れ際にお土産にと酒の小瓶を1本頂いた。
この福小町という銘柄は東京の老舗割烹の名店のいくつかでオリジナル銘柄として提供しているとのこと。

お礼を言い帰ろうとする私に御当主はきちんとした姿勢で何度も深々と礼をしてくださった。
こちらが恐縮するくらいだった。

  いろいろ勉強になりました。
  そして、このご縁を大切にしたいと思います。

この御当主とは、またお会いできるような予感がするのである。
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by maco4459 | 2009-03-18 00:14 | 歴史 | Comments(0)

埋木の茶の湯

井伊直弼というと安政の大獄を連想して冷酷非情な政治家と言う印象が強い。

その一方で、直弼は宗観という号を持つ茶人という側面を持つ。

直弼は井伊家十一代当主、直中の十四男として生まれた。
井伊家では、藩主となる跡取り以外の男子に分家を許さない。
他家へ養子に出されるか、兄の家臣となるか、そのいずれでもない者には三百俵の捨扶持が与えられ、一生日陰の身となるという掟があった。

兄弟間の争いを未然に防ぐため考えだされた方法であった。

十七歳で父・直中が死に兄・直亮が跡目を継いだとき、十四男の直弼は捨扶持をもらって部屋住みとなる道を選んだ。
選んだというより、それよりほかに生きる道がなかった。

日陰者の直弼が暮らしたのが三の丸にある北の屋敷であった。
直弼は北の屋敷を、自らの境涯にたとえ、埋木舎と呼んだ。
埋もれ木のような自分が暮らすにふさわしい住まいと自嘲したのである。

世の中の表舞台に立つ道を閉ざされた直弼は、溢れる情熱のはけ口を求め、様々な勉学や趣味に没頭した。

(たとえ部屋住みの身でも、いつ世に出ても恥ずかしくないよう、おのれを鍛え上げておかねばならぬ・・・)

直弼の心の底には、そうした気概が秘められていた。

とはいえ、いかに気概を持っても、学問・武芸に励んでみても、自分が世に出る機会がないことには変わりがない。

出口が見えない闇の中で、孤独な直弼の心をもっとも慰めたのが茶の湯であった。

最初に茶の湯の手ほどきを受けたのは高安彦左衛門という彦根藩お抱えの能役者である。
その後、片桐宗猿門下の真野善次より、石州流の茶を学んだ。

茶の湯の世界に精神の拠り所を見いだした直弼は、埋木舎の建物の一部を改築し、四畳半の茶室を設えている。
『法華経』にある『甘露ノ法雨澍テ、煩悩ノ焔ヲ滅所ス』という言葉から、これに澍露軒と名づけた。

澍露軒の柱には、

  何をかは踏み求むべきおのづから  道にかなへる道ぞ此の道

  朝夕に馴れてたのしく聞くものは  窓のうちなる松風の声

という自作の和歌の短冊が掛けられていた。
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by maco4459 | 2009-02-04 00:14 | 歴史 | Comments(2)

ホクロは昔の面影/明智光秀の妻

あまたの戦国武将の中で側室を持たなかったのは明智光秀だけであったと言われている。
若いとき諸国を放浪した苦難の日々をともに寄り添い歩いた妻を終生大切にしたのだ。

光秀は信長の有力な家臣であったが謀反を起こし、三日天下の後、山崎・天王山で秀吉に破れる。
彼は武芸にも秀でていたが、茶の湯や詩歌をこよなく愛した教養人だった。

光秀の妻・煕子は近江佐和山で生まれた。
煕子の父は光秀と旧知の仲で、将来有望な光秀に娘を嫁がせることを望んだ。
光秀も同意したので、ごく自然な成り行きで婚約が整った。

いよいよ煕子が光秀のもとに嫁ぐ日が近づいてきた時節、煕子は当時流行っていた疱瘡に罹ってしまい、その美しい顔に痘痕(あばた)が残ってしまった。

こんな醜い顔になってしまっては光秀は自分を愛してはくれまい、と思った煕子は断腸の想いで、父に光秀との結婚をあきらめる旨を告げる。
父は煕子を不憫に思ったが、前途有望な光秀との縁が切れるのも惜しいと思ったので、煕子と姿形の良く似た妹を嫁がせることにした。

輿入れの日、妹と対面した光秀は顔にホクロがないことに気付く。
『そなたは煕子ではない。私が妻に望んだのは煕子である』
妹は姉が疱瘡に罹り、顔に痘痕が残ったので、父の考えで自分が身代わりに嫁いできた旨を告白し、非礼を詫びた。
光秀は、
『容貌など歳月や病気でどうにでも変わるもの。ただ変わらぬものは心の美しさよ』
と語り、妹娘を佐和山に送り返した。

その後、約束通り光秀は顔に痘痕の残った煕子を妻に迎えた。
煕子を愛していたのだ。
煕子は光秀のこの時の愛情を終生忘れず、献身的に尽くしたのだった。
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by maco4459 | 2009-01-23 01:06 | 歴史 | Comments(0)

小早川隆景の箴言

毛利元就の三男、小早川隆景は遠謀深慮の智将として知られ、天下人秀吉に重く用いられた。

佑筆に火急の用件を書かせるとき、『急用である。静かに書け』と諭したと伝えられるが、これは隆景の慎重な性格をよく表している。

隆景が自らの人生観を語ったとされる言葉がある。

    『人生は夢の間のことなれば

現実を冷静に見極める判断力の冴え。
隆景は天高くから俯瞰するように自らの人生を眺めていたのだろう。
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秀麗な容貌、沈毅英邁な性格、宏量にして鋭い才知。
隆景があと3年長く生きていれば、果たして家康の天下はあったであろうか。
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by maco4459 | 2008-12-23 23:03 | 歴史 | Comments(0)