半泥子は生涯に何度も家を建てたが、戦時中、その邸宅のほとんどを海軍に献納した。
戦後、ただ一つ残った洋館に接し「半泥子作品中豪壮最大なもの」と自称する日本家屋を建てたが
1年あまり住んだだけで、洋館とも進駐軍にとりあげられた。
津の市街は大半が空襲で焼けたが、半泥子の住んでいた千歳山は焼けなかった。
しかも、そこに立派な邸がある。
目をつけられるのも当然である。
進駐軍のクリストファー少佐の居宅および軍の集会所として借りられた。
半泥子は集会所に名前をつけてくれと言われ「ABC倶楽部」と命名すると、
アメリカの将校は喜んで帰っていった。
あとで半泥子は『あれは
アメリカン・バカヤロウ・クラブという意味や』と言って、
側近を笑わせた。
しかし半泥子は思想的に「反米」であったわけではない。
たまたま知り合ったグロジャンという少佐の教養と礼儀正しさには、戦後の日本人
の精神の荒廃と比較し、ひどく感心したと伝えられている。