『高麗茶碗/林屋晴三(平凡社)』の巻末に高麗茶碗使用史年表がある。
年表を辿っていくと、三成所有の茶碗が4点あることがわかる。 1590年 きょうけんのはかまノ茶碗 石治部(所持者) 宗凡(会期名) 1594年 高麗茶碗 石田治部少輔 宗湛 1597年 高麗白茶碗 石田治部少輔 宗湛 1599年 高麗茶碗 石治少 宗湛 三成は豊臣政権下では五奉行の筆頭で秀吉の側近中の側近であり、高価な茶碗を手に入れるに足る権力も財力を有していたであろうし、また当時の茶会はいわば政治サロンとして、現代の政治で言えば赤坂の料亭のような役割も果たしていたから、茶碗を所有するということは「商売道具」を自ら備えておく、という意図もあったのかも知れない。 しかしながら、 わたしは三成が4点もの高麗茶碗を所有していた理由はそれだけでなく、芸術としての茶の湯、とりわけ高麗茶碗に心惹かれていたからではないかと思っている。 それは次のような逸話が残っていることからも想像できる。 関ヶ原の合戦を目前に控えた慶長5年(1600)の9月、鵙屋宗庵(満代屋宗庵)が大垣城に三成を訪ね、陣中見舞いを申し述べた。三成は大いに喜び、かつて宗庵から三百金を出して購った茶器「唐来肩衝」を取り出して宗庵に託してこう言った。 『もし、このたびの戦で運がないときには、この名器も灰燼となり、虚しくなってしまう。今、之をそなたに返す。自分が討ち死にしたと聞いたときには、これで朝夕茶を点てて、我がために追悼の心を寄せてもらいたい。もしも、このたびの戦で運があったときには、再び相当の価格で買い戻すゆえ』 関ヶ原の戦後、この名器を欲した家康が宗庵の行方を捜させたが、宗庵の行方は沓としてわからなかった。 ようやく宗庵を博多で黒田長政が探し出して「唐来肩衝」のことを訊ねると、 『この茶入は三成公より譲り受け、形見として三成公を弔っていたが、今はこれまでである』と語った。 長政は「唐来肩衝」を宗庵より召し上げて家康に献上した。 太閤検地や朝鮮の役で兵站奉行を務めた三成は怜悧な合理主義者というイメージが強い。 日々の多忙な政務をこなす彼の頭の中は大名の石高や兵や鉄砲などの数的データで一杯だったはずだ。 芸術としての茶の湯の世界は実利とは対極に位置するもの。 三成の住む世界にそれを受け入れる余地はあったのか。 彼の住む現実世界の対極に有る茶の湯の美の世界。 その茶の湯の世界こそ、彼の多忙な日々の中で唯一の慰めであり喜びではなかったか。 茶碗の口縁に故郷・湖北の山々の稜線を重ね合わせ、見込みの中に琵琶湖が山裾に広がる様を思い浮かべて、暫しの安寧の瞬間(とき)に浸っていたのかも知れない。
by maco4459
| 2008-11-15 01:14
| 歴史
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